一見ムダだと思うことをやってみることの大切さ

ムダなことをする。

 

最近は効率化が求められ、ムダなことはどんどん排除されていきます。でも同時にそのムダかどうかをやる前から決めつけてる傾向もあるんじゃないかと思っています。何かを頭ごなしに否定する。それは簡単ですが、同時に自分の可能性もつぶしてしまいます。ムダだとわかっていてもやってみるという姿勢がもう少し必要じゃないでしょうか。

 

そして、ぼくがさらに言いたいのは、ムダを愛してみないかということです。ムダなことの中にはなぜか捨てきれないモノがあると思います。あるいはなんとなく惹かれるもの。こういった自分の心が微動したものはやってみる価値があると思うんです。もちろんこういった行動には理由も目的もなかったりします。けどやってみるんです。

 

例えば、ぼくは今、「断食」に挑戦してみます。きっかけは「友達が断食したくね?」と言ったからです。そこからはすぐにやり方を調べ、次の日には準備し、断食をはじめました。そして今、断食の最中、友達に「断食してる」というと「なんで?」と聞かれます。妥当な反応です。そのときぼくは「腸を整えたいから」とか「良いことがあるらしいから」と答えましたが、実際はどちらでもなく、本当は「なんとなくワクワクするから」です。理由なんてありませんでした。自分が断食したらどうなるのか。その実験風な部分にワクワクしたんです。そして実際今もどこかでワクワクしてる部分があるんです。

 

理由、目的はいらない

そもそも行動に目的はいらないんじゃないでしょうか。理由だっていらない。そもそも自分の中のワクワクはそんな簡単に説明できるもんじゃないです。「なんとなく」「やりたいからやる」そんなものじゃないでしょうか。むしろ、説明ができる部分は付け焼き刃だったり、人の言葉を借りたものだったりする気がします。

 

大事なのは心のワクワクや情熱です。自分の中で「すること」はもちろん「しないこと」に関しても違和感を感じたらその違和感を大事にしてほしい。そこにはたぶん自分の中の納得感があるんです。そして違和感を大事にし、自分なりの納得をつくることが素直でいるということだと思います。納得感については「隠居系男子」というブログでも書かれてます。

自分の納得感を一番大切にしているひとを応援したい。 | 隠居系男子

 

この納得感を得る上でムダなこともやってみる必要があると思います。そしてそのムダなことは本当にムダだったかもしれないし、何かしらの気づきを与えてくれるかも知れません。例えば、「この作業は好きだな」とか、「食べなくても生きていける」とか。そういう経験はやってみなければわかりません。

 

とにかくやってみる

とりあえずやってみる。「やってみなきゃわからないことばかりだ。」といいますが、ぼくは「やらずにわかることなどない」と思っています。本当の理解とは経験することですからね。

 

それでも時に頭ごなしに否定してくる人が居るでしょう。バカにしてくる人だっています。だからこういうときにはバカでいいやと割り切れる強さが必要なのかも知れません。そしてぼく個人としてはバカな人が大好きです。いっしょにバカをしたいんです。楽しそうに自分の違和感を大事にし、そのために行動できる人。それがバカです。

 

傍からはバカと言われもいいじゃないですか。どうせみんなバカです。というかどちらでもいいんです。そんなもの他人の評価に過ぎないんですから。それより自分の中の納得感を大事にするためにムダを愛することが大事だと思います。それをやると実際何がどうなるのかなんてやってみないとわかりません。そのなにかにワクワクし、愛する。そんな人が素敵だと思うんです。

 

 

ほな、さいなら