大学はくそだ。人が腐る。

「大学」はくそだ。

 

昨日の夜、興奮と怒りを感じて眠れなかったんですよ。思い出したかのように怒りが湧いてきて。今日はそのことについて書こうと思います。もうタダの批判になるかも知れませんが、怒ります!

 

なんで、こんなに怒ってるかというと、自分でも気づかないほどのスローペースで怒りを積み立てられていたからです。そしてその怒りによって、自分を見失いそうになっていたからです。「生きづらいなぁ」と思いながら、「じぶんが悪いからだ」と思っていた。いや思わされていたことに腹が立っているんです。

 

「意識高い系」という人を殺す言葉と目

ぼくは向上心が強いです。人一倍。前にも書いたとおり、ぼくは【自我】を持っているので上昇志向が強いんです。そしてそんなぼくにとって「意識高い系」という言葉がつらいわけです。言葉と言うより目です。一歩も二歩も引いている冷ややかな目が辛いんですよ。まるで「自分はそっち側にはいないよ。バイバイ。」と言わんばかりの目がいやなんです。

 

実際にぼくが意識高い系かどうかは別として、生きづらい。「大学」という場はこの空気感でみたされている。ぼくはやりたいことをやっているだけなのに「意識高い系」と言われる。なぜ意識低い方が高い方を見下ろす感じで言えるのか位置関係からよくわかりません。そもそも見方が違う。意識は高い低いじゃなくて、どの方向なのかと言う話になるはずです。そして「その方向のことやってるんだ。おもしろそうだね!」とつながるはずなんです。

 

けど実際は人が何かをやってみようとなったとき、そのやっていることを面白がろうとするのではなく、「意識高い系」と「そうでない自分」という安全バリアを張りたがる。いっしょにやらなくたっていいから、そのやってることをいっしょに面白がれば良いのに。興味を持てば良いのに。そんなことは決してしない。やるのはただ「線引き」です。

 

何事もきめるのは「どれくらいの熱量で取り組むか」から

そして、「意識高い系」空気が蔓延してるので、なにかグループワーク等があっても始めるのは互いに「どのくらいの熱量をこめるか」を探り合うところから。何も面白くないですよね。面白いことだって起こらないですし。結局この探り合いも、冷えに冷えて「面倒だし」とか「それだと難しくなっちゃう」となんとなくやり過ごすという選択肢をとる。すごくつまらない。

 

そしてなにより、その熱量をどうするかということを探り合う部分自体がめんどくさいんです。なんだって真剣に取り組めばめちゃくちゃ面白いんです。けど、真剣に取り組むということがどんなことか忘れてしまうんじゃないかというほど真剣に取り組む機会が無い。その上で「自分には何もない」なんて言うんです。そんなこといわないでほしういですよ。たくさんもってるんだから。

 

ぼくは熱量は全力で注ぎたいですし、真剣に楽しみたい人間です。できるかどうかは別として、そんな自分を思い浮かべるだけで楽しくなるんです。だからこそいまそうじゃない自分に気づいて腹が立ったんです。なによりこんな怒りを積もらされ、それに気づかず、自分をほぼ失っていたことに腹が立つです。「自分が悪い」と軽く自己否定に入ってたことが。

 

やりたいこと・なりたい物がわからないから「大学」はない

ここまで批判に批判を連ねてきたぼくですが、ぼくが大学にきた理由も実は周りに流されたからです。周りがみんな大学に入ったから大学に入った。そんな感じです。そして理由も同じ。「まだやりたいことがないから」、「まだ就きたい職業が決まってないから」でした。

 

けど、ここまで大学生をしてきて思うのは、「やりたいことや職業が決まってないからといって”大学”に来る必要があったのか。」と言うことです。もしそれらを見つけたいからという動機があるのだとしたら、「大学に行く」という必要は無いと思います。それは、「大学に行く」ことではそれはほぼ見つからないからです。というより、問題は見つかった後なんです。やりたいことが見つかった後、行動をすると疎外感を感じかねない。だから実現までこぎ着けにくくなるんです。

 

やりたいことを見つけるとか自分に合った職業を見つけるにはやはり実際にやってみるしかありません。そう考えたときにやはり「大学にいる必要性」はあるでしょうか。そのやってみたいことは”大学”でできることなのでしょうか。そうかんがえると多くの場合は「大学にいる必要性」は無いと思います。むしろ手当たり次第にやってみたいことを書いて実践できる場に行けばいいんです。

 

十分に選択肢はあるはずです。ワーカーホリックや海外、インターンなどなどできることはいろいろあると思います。会ってみたい人に会いに行ってみたっていいんです。べつに「大学」に居る必要はないんです。

 

なんでぼくがここまで「大学に行く」ということについていってるかというと「大学に行く」という選択肢がひとつの投資だからです。お金がかかっているからです。奨学金を借りている人は借金をどう投資にまわすかと言う話になるからです。親じゃなく、自分の問題になっているからです。ちなみにぼくも奨学金を借りています。投資先を決める上で「大学」が最高の投資先なのかを確認する必要があります。

 

空気感で生きない。

正直、こんな空気感に浸っていると死んでしまいます。「個性」が死んでしまうんです。ぼくはひとの「個性」が輝いてる状態を見るとうれしくなるんです。けど、「大学」にあるのは同調圧力です。しかも同調しない人を殺しきらない、生殺しにする同調圧力です。空気感で生きるというのはそういうことになります。そんな場所で生きていたら腐ってしまいます。

 

人は環境には勝てない生き物です。環境にものすごく影響されます。しかし、その環境を選ぶことはできるんです。環境の状態に影響を受けやすいからこそ、環境選びを慎重にやらなくてはならない。少しでも感じた違和感を大事にしなくてはならないんです。

 

そんなことをいうと、「自分の今いる場所を変えられなくてどうするんだ。」と思うかも知れません。正直ぼくなりにやってみようとはしましたし、できませんでした。というか変える必要が無いんです。自分を変えたいだけなんですから。それができるほどの大きな人間になってからできるようになればいいじゃないですか。そこで落ち込むのは見当違いです。いまのぼくにはできない。けど、できることがあると思うからそちらをやりたいと思うんです。

 

大学に行くこと自体を否定しているわけじゃない

ここでいっておきたいのですが、大学に行くことを全否定しているわけじゃないです。大学でしか学べないことはあるし、大学のもつ特性自体は素晴らしいと思います。勉強したいことがある人にとってはこの上なく良い場所でしょうし、熱くなれるところだと思います。「学生」という肩書きを使って誰かに会いに行きたい人には有効だと思いますし、何かしたいことがあってその上で「大学に行く」という選択は素晴らしいと思います。

 

ぼくがもう一度考えてほしいと言っているのは、”なんとなく大学に来た人”です。そして同時に「なんか違うな」と思ってる人です。簡単に言うと少し前のぼくです。あとは大学に行くかどうか迷ってる人です。

 

「就職に有利になるから」という話をする人もいると思いますが、「大学に行った」と言うこと自体はもはやなんのアドバンテージでもありません。レッドオーシャンなんです。供給過多。そして、「大学に行く」ということは「大学」にある程度の時間がとられるということです。例えば、「この日〇〇さんに会いに行きたい。」と思っても、「テストがあるからいけない」と言うことが起こりかねないということです。

 

それよりは、何か他の人がやっていないようなおもしろいことに挑戦してみて「〇〇をやったことがある人」のほうが輝いて見えますし、ぼくはそんな人と仕事がしてみたいなと思うわけです。そうやって自分だけがしたことあるようなことを増やすことに時間を使った方がアドバンテージになると思います。

 

もちろん大学にいながら動くことはできます。けど、動くことができるかどうかを問題にしてるんじゃありません。大学にいる必要があるのかどうかを聞いているんです。

 

最後に

これが奨学金を借りながら大学に行っているぼくの意見です。昨日の夜この怒りに気づいてそこからは「ありたい自分」までつながりました。興奮しましたし、怒りもしました。「生きづらいなぁ」と感じていたんです。自分がまちがっているように感じていたんです。自分だけがおかしなやつのように見られる。それはとても辛いことです。ちょっとしたことの積み重なりですが、それが徐々に自分を辛くさせていくんです。

 

ぼくはこれからちょっとずつ活動の中心を大学から離れさせていこうかと思っています。具体的にどうするとかは決まってないですが、ここに居てもつまらないことはわかってるので、どうにかしようと思っています。怒りを一通りここに書きかなりすっきりしました。そしてもっと自分が行きたいように生きようと思います。

 

ここまで人の愚痴を読んでいただきありがとうございました。うれしい限りです。

 

 

ほな、さいなら