アーティストとして自分が目指すところ

先日、画家の小松美和さんのライブペインティングを目の前で見たんです。もちろん絵は素晴らしく、というか前に立つと清々しくなると言った方がいいんですけど。実際にあなたにも見てもらいたいんですが、一貫して夢中になっていたという感じですね。

 

小松美羽さんの絵は前々から目指したい部分が多く、小松美羽さんになりたいとは思いませんが、描く姿勢とかアートへの概念は影響されてるところがあります。

 

そしてはじめて小松美羽さんが絵を描いている所を見ていろいろ思ったことがあります。それは、目指したい状態を見つけたってことです。それがどういう状態かを自分も忘れたくないのでここに書いていきます。

 

自分を空っぽにする。

ぼくがずっと感じていたのが、自分を絵のために空っぽにするってことです小松美羽さんは描く前に瞑想をするんですが、そのときから徐々に自分を空洞化させてるイメージがあるんです。どういうことかというと、創造されたものを表現するために自分を手段にしているんです。小松美羽さんの場合は神獣を描くことが多いからかも知れませんが、創造力とキャンバスをつなげるための管として自分を使っている感じがするんです。筆で描くのではなく、手で描くのでもなく、全身で描く。創造されたものをキャンバス上に降ろすために自分を使ってる感覚があるんです。

 

なので、全身でキャンバスにぶつかって描いています。見えるのはイメージとキャンバスのみで他の一切を排除し、集中しているんです。周りに色が飛び散ろうが、自分が絵の具まみれになろうが関係ない。どんなに周りがうるさかろうが関係ない。そんな感じを受けるんです。

 

自分は創造性というものとキャンバスをつなぐ管にすぎないかのようにそこで絵を描きます。それは、決してそこに人格がないというわけではなく、むしろ本人はそこに幸せを感じているように無我夢中で描いているんです。たぶん、描いているときは幸せとは思ってないでしょう。そんなこと思う刹那もなく、フロー状態にいるんです。

 

自分の目指すところ

この創造性のために自分全体を使うというのがぼくのたどり着きたいところです。ぼくは”絵は生き方”だと思っています。創造するということはそういうことです。生き方がもろに反映されます。そこに一切の嘘はつけません。たとえどうにか繕おうとしても超えることはないんです。だからこそ、あそこまでいけるすごさを実感しているんです。

 

正直、自分の目指すところが観れたうれしさと自分がそこにいけていないことを感じた悔しさがありました。僕もそこの領域まで行きたい。決して小松美和になりたいとは思わないですが、その喜びを感じたいんです。そしてそこには僕の表現の仕方でいこうと思います。

 

人の奥の奥底に届く。何かわからないかもしれないけど届かせる。そんな絵を描きたいんです。バカで構わない。ダサくて構わない。恥ずかしがり屋で構わない。下手で構わない。気持ち悪くて構わない。ただ、伝える。それだけに集中させたいんです。

 

ぼくが目指すところは、胸を突き刺し、何か違和感や刺激を与えつつ、同時に優しさを感じるような絵です。まだまだですが、いけると思っています。下手でも伝えていこうと思います。宣言みたいな記事になってしまいましたね。ここまで読んでいただきありがとうございます。

 

 

ほな、さいなら