「就活」という単語を聞くようになったので、「就活」について思うことを書いた

ぼくは今大学3年生です。なので、最近周りで「就活」という言葉をよく聞くようになりました。ということで、今日は「就活」について書きます。

 

まず言いたいのは、「就活をするかどうかから考えようよ」ということです。「周りがみんな就活するから就活しよう」という考えは危険です。

 

そう思うのは、大学受験を失敗し、「あれは鬱だったのかもしれない」と思うほどに落ち込んだぼくだから思うのです。就活にも大学受験に似た部分があります。それは、
  • 「周りが一斉に動き出す」
  • 「競争的である」
  • 「落ちるとダメというレッテルを貼られた気分になりかねない」
という部分です。
特に周りが動くというところはとても危険です。周りが動くと「自分はおかしい」とか「こうしなきゃいけない」という考えが出てきますからね。そうすると徐々に自分を見失ってしまいます。大きな流れに入る前だからこそ自分と向き合い、自分の核を思い出すことが大事だと思うんです。

 

自分に問う

「自分のありたい姿が「就活」の先にあるのかどうか?」を問うことが大事です。「就活」なんて通過点に過ぎないんです。多くの人が「新卒」という肩書きがあるから今のうちに就活をしたいと言いますが、その肩書きは本当に大事でしょうか?それよりいったん立ち止まり、自分のやりたいことを持った核を持ってる人の方が魅力的に見えないですか?

 

肩書きなんて気にしなくていいです。焦らず、自分のペースで生きましょうよ。もし自分の「やりたいこと」がわかっていないなら、そこからはじめればいいんです。やりたいことがないからとりあえず就職じゃなくて、やりたいことがわからないからこそ一旦立ち止まって考えるんです。

 

あと、もうひとつよく耳にするのが「どこで就職しようか」という言葉です。たくさんの人が大学のある場所か地元かで考えてるような気がします。これもちがうと思うんです。主体が「就職すること」になってる、話の中心に持ってくるのはあなたの生活・人生なんじゃないんですか?だから、「どんな街で生活したいか」と考えてみませんか?

 

それを知るためにはいろんな所に行って旅をする必要だってあるかも知れません。理想に遠慮なんていらないです。追求しましょうよ。楽しいじゃないですか。

 

働くことへの思い込み

”働く=苦しいこと・辛いことを耐えてやること”というような考えがはびこってる印象も受けます。最低でも楽しくはないのだろうと思ってる印象を。

 

それは知らないだけです。よく「学生のうちに遊んでおけ、今しか遊べないから」という大人がいます。たまに大学生でそれを言う人すらいます。そういう人はこれから何を楽しみに生きていくんでしょうか?その言葉は自分の人生を納得させるために使った言葉に過ぎないです。そしてそれを言ってる大人たちもこれから楽しんで生きようと思えば生らきれるんです。ぼくは人生のピークは死ぬまで無いと思っています。

 

話を戻しますが、働くことは楽しいと思います。それこそ自分の好きなことを仕事に刷れば良いと思うんです。現実的な話で言えば、これから仕事の多くはAIにとられ、人間の仕事はとられていくといわれています。そして人間のすることは「遊ぶこと」になるとも言われてます。だから、「仕事」=「遊び」になるんです。AIにできない創造力や知性的な部分がこれからの仕事をつくっていきます。

 

そして、SNSも普及し、今は自分の好き・得意が届きやすい時代になっているんです。仕事なんて好きで得意な人がやるに越したことはないです。いろんな働き方を知り、自分に合う方法を見つけて、居やすい空間を自ら創り出していくということが生きると言うことだと思います。「就活」を考えるというのは「人生」を考えることです。そして、それは楽しいです。一旦立ち止まって考えましょうよ。

 

ほな、さいなら

この世に「すべき」「あるべき」なんてないです。あるのは「したい」「ありたい」だけです。

「こうすべき」とか「こうあるべき」みたいなので動いている人いますよね。けど、ぼくはそれで生きたくないんです。きっとこの世に「こうすべき」とか「こうあるべき」ってものは無いんです。あるのは「こうしたい」と「こうありたい」だけです。もっと言えば、「こうする」と「こうある」だけかなと。

 

そういうぼくももともとは「こうあるべき」や「こうするべき」で生きてる人間でした。しかも周りの人にそれを押しつけてさえいました。けどやっぱりそういう生き方って苦しいんです。「べき」で考える生き方は「そうではない自分は自分ではない」と言ってるようなものです。けど、どれも自分じゃないですか。だからあくまでぼくは「したい」「ありたい」で生きたいんです。

 

なので、「こうしたい」と「こうありたい」で生きろ!とも思いません。好きな生き方を選べば良いです。ぼくは興味ありませんからね。でも、「べき」で生きてる人とはあまり一緒にはいたくないです。「べき」を押しつけてきたりしますからね。そうではなく、「したい」で生きてる人と一緒にいたいです。

 

少し話は大きくなりますが、極論を言えば、ぼくは「生きるべきだ」とも思わない。その人が死にたいのであれば死んでもかまわないと思います。あなたはそれに反対するかも知れません。もしそうならこの記事を見てほしいです

→「もう人生を続けたくない」 104歳の豪科学者がスイスで自死(BBC News) - Yahoo!ニュース

 

世の中は個人にいろんなことを言ってきます。強要するかのように。しかし、その先には幸せなど待っていないです。むしろ自分で考えた先にしか幸せはないです。いまぼくのまわりは「就活」という話題が出てきています。就活に関してもそうです。就活をする先に自分なりの「ありたい」「したい」があるのかどうか?それを考えるところからはじめるのはどうでしょうか?

 

自由になるというのは

自由になるというのは、「こうありたい」と思い、その先で「こうあるべき」に出会い、そして「そうじゃなくてもいい」という風に世界を広げていくことです。ほとんどは自分の思い込みに過ぎない。これを目指すんだったらこうするべきだってのは無いと思います。

 

「ありたい」「したい」というように能動的に主体的に切り開いてく姿勢が自分にとって居心地の良い空間や楽しいものを作り出していくんです。

 

ぼくの好きな言葉に宇宙兄弟シャロン博士の言葉があります。

迷ったときはね、

どっちが正しいかなんて考えちゃダメ

どっちが楽しいか で決めなさい

人生をより楽しくするエンジンは心のワクワクです。そのキーワードが「したい」「ありたい」です。少しずつでいいからワクワクに従っていきましょうよ。きっと楽しいですから。

 

ほな、さいなら

期待は人を殺す。だから期待じゃなくて応援しよう

期待はしない、応援をする

ぼくは期待はしないように心がけてます。期待ではなく応援をする。それがぼくのモットーの一つです。

 

なぜこんな価値観を持つようになったかというと大学受験の時に期待される経験があったからです。そして期待に添えなかった。その後の自分はすごく落ち込みました。今思えばじぶんの思い込みの部分もあったんだと思います。でも、どちらにせよ期待はいいもんじゃないと思ったんです。

 

期待は人を殺します。

期待はあなたの意思を次第に殺し無くしていきます。そして知らないうちに、あなたは自分の意思を忘れ、期待に応えられなかったとき必要以上に落ち込む。他人に失望させてしまったと。冷静に考えればそんなものは期待した側の責任です。けど自分のせいだと思ってしまいます。そんな風になるのならば、期待などいらないです。

 

必要なのは期待することじゃなくて応援するってことです。

 

期待じゃなく応援

じゃあ、期待と応援という形の何がちがうのか。一言で言えば、合格ラインをつくるかつくらないかです。

 

期待するというのは、その人の活動を階段を上るものとみたとき、数段先で待って「ここまで来い!おまえなら行けるはずだ!」と声かけをするイメージです。

一方で、応援するというのは、その階段を横から一緒に、必要なら後ろからおしてあげるイメージです。

 

もっと言うと、期待は勝手にその人のイメージを頭の中でつくり、「それに当てはまらなければキミはキミじゃないよ」というスタンスです。本人からすればたまったもんじゃないですよね。「どれもぼくですよ」って感じです。

 

それに対して応援は、存在自体に価値を置く、「どうなってもおまえだ」という風に。

 

期待というのはそれほどまでに人の人生に影響を与えます。かなりめんどくさいものです。あたかもその人を肯定するかのように接するんですから。

 

こうやっていってると冷たい人のように思えるかもしれません。きっと本当に優しい人というのは冷たい人なんです。期待はしない。そのかわり何かあったときや、サポートが必要なときは全力で手伝う。そういう人のことなんです。

 

あなたは今誰の人生を生きてますか?期待のために生きてないですか?少し立ち止まって考えることも大事だと思います。期待はあなたを焦らせたりもします。少し焦ってしまうなら「期待は少し黙ってろ」って言っときましょうよ。

 

自分は今期待されてないか。自分は今期待していないか。そこらへんを考えながら生きたいです。

 

ほな、さいなら

 

感受性を大事にする

感受性を大事にする

自分で言うのもなんですが、ぼくは感受性が豊かな方だと思ってます。別の言葉で言えば繊細ということです。そりゃ強みですし、弱みにもなるかもしれません。それでも大事にしていきたいと思うのです。

感受性が豊かなのはいいです。それこそ、いい映画で泣いたりもしますが、夕焼けでびっくりするくらい感動できますから。

今日はその感受性に関することで、ぼくの好きな詩を紹介しようと思うんです。

 

好きな詩

その詩は茨木のり子さんの「汲むーY・Yにー」という詩です。それはこんな詩です。

大人になるというのは

すれっからしになるということだと

思い込んでた少女の頃

立居振舞の美しい

発音の正確な

素敵な女の人と会いました

そのひとは私の背のびを見すかしたように

なにげない話に言いました

 

初々しさが大切なの

人に対しても世の中に対しても

人を人と思わなくなったとき

堕落が始まるのね

墜ちてゆくのを隠そうとしても

隠せなかった人を何人も見ました

 

私はどきんとし

そして深く悟りました

 

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな

ぎこちない挨拶 醜く赤くなる

失語症 なめらかでないしぐさ

子供の悪態にさえ傷ついてしまう

頼りない生牡蠣のような感受性

それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

老いても先立ての薔薇 柔らかく

外に向かって開かれる野こそ難しい

あらゆる仕事

すべての良い仕事の核には

震える弱いアンテナが隠されている きっと……

わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました

たちかえり

今もときどきその意味を

ひっそり汲むことがあるのです

 

素敵ですよね~。いままでぼくはじぶんのアンテナを隠してきたように思います。そして今も隠すことがある。けどきっとそんな必要はないと思うんです。その感受性がいいところなのだから。

 

だれしも弱く震えてる

ぼくは男なので「くよくよしちゃいけない」とか「どしっとかまえてなければいけない」と思うことがあります。けど、実際にはすべての感情を堂々と出していきたい。喜怒哀楽すべてを。

この詩を読んだとき、そのままでいいんだと思えたのです。しなやかにいればいいのだと。不器用かも知れないけど、不器用なままで生きていく。そうやって平気で生きていこうと思うんです。

あと、「初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人と思わなくなったとき 堕落が始まるのね」という一説はぼくもどきんとしました。果たしてできているのかと。忘れているときがあるどころか多いんじゃないかと。しかし、そこで自分を責めようとは思いません。それに気づけた自分を大事にしていこうと思うんです。

 

感受性というのは今の世の中に不足しがちなものです。それを大事に汲み取り、育てていく。そして、堂々とその感受性を出していこうと思います。

 

ほな、さいなら

 

今まで少し人前に出すのをためらっていたことについて書こうと思う

ぼくのなかの傷について書く

これから書くことは、今まではあまり外に出したくなかったことです。

すこし怖いです。けどこれもぼくなんで、書こうと思います。

 

ぼくの心の中には傷があります。小さい頃にできた傷です。その傷というのは自分の土台となっているセルフイメージです。「ぼくはやっぱり愛されないんだ」とか「ちゃんとしてないとぼくに価値はないんだ」というセルフイメージです。

この傷はぼくを「こうあるべき」という言葉で縛ったり、それができないと自分を責めます。「こうあるべき」なんてものないんですけどねぇw

まぁ、わからない人にはわからないと思います。わからなくてもいいとも思います。

 

ただ、さすがにこれだけで終わるのも変な話なので少し詳しく話していきます。

インナーチャイルドというもの

これは俗に「インナーチャイルド」って言われるものです。小さい頃にできた心の傷が自分のなかに子供の頃の自分として残っている。

多くの場合は、家族との関係のなかでできたります。ぼくの場合はお兄ちゃんになったことです。お兄ちゃんになるという出来事がいろいろな体験をさせます。

まず、「自分の気持ちやしたいこと」が否定される。今までより愛してもらえなくなる。そして「お兄ちゃんとしてちゃんとしなければならない」と期待される。ここでいっときますが、期待は人を殺します。期待じゃなくて応援をしましょう。

ただ、これは誰が悪いとかじゃないです。主観的に見るとこうなるって話です。

お兄ちゃんになるってのは誰にでもあることです。でも、だからこそ、なおざりにするもんじゃないです。

小さいときにできた自分のセルフイメージ

こうやって小さいときにできたセルフイメージが「ぼくはちゃんとしてなければ愛されない」です。このセルフイメージだと「自分は何かをすることではじめて価値がある。」とか、自分のやりたいことや気持ちに嘘をつくってことにもつながります。

それでもかまわないとは思います。けど、そんな人生はいやなので、ちょっとずつセルフイメージを変えていこうと思うのです。

少しずつ癒やしていく

ぼくは今この子と一生つきあうつもりで生きてます。ぼくですからね。その上で癒やしていこうと思うんです。つまり、自分が自分の親になる。そのために毎朝瞑想って形で自分と対話しています。最近はとても信頼が築けてます。

方法としては、

  1. 深呼吸し、リラックスする
  2. じぶんの目の前にこちらを向いて座っている5,6歳の小さな子供をイメージします
  3. その子の気持ちを察します。何か話してきたらしっかり聞いてあげます。
  4. その子が癒やされるようにその子がかけてほしいと思っているであろう言葉をかけます。
  5. もう一度4と同じように言葉をかけます。
  6. その子が喜んだり安心したりするのを感じます。
  7. ゆっくりと目を開けて終了です。

最初の頃は何も話してくれなかったり、癒やされないまま終わるかも知れません。それでも毎日します。そうしているうちにだんだんと信頼関係が築けていきますから。

ぼくは自分に超甘くなろうと思います。ダメダメでいい。失敗していい。へたでいい。きもくていい。ださくていい。泣いていい。怒っていい。無視していい。

いろんな自分を許していこうと思います。

ぼくはまだ自分を受け入れきってないのかもしれません。それでもかまわない。じぶんのペースで進んでいこうと思います。

このワークがもしあなたのためにもなったらうれしいです。

 

ほな、さいなら

ありたい自分で書いていく

ブログを書き、自分をつくる

今日からはてなブログでこつこつ自分の考えを書いていこうと思います。というのは鳥井さんの隠居系男子というブログのなかの「人格は書き言葉で変わる」という記事を読んだからなんです。

「人格は書き言葉で変わる」のなかで鳥井さんは

素晴らしい人格者→良い文章

ではなく

良い文章→素晴らしい人格者

ということです。

と言っています。

ぼくはこれにとても納得しました。良い本を読んだり、良い言葉を知っただけでは意味なく、それを写経していくことで自分をなりたい方向へもっていく。「なりたい自分」に書かせるということもそういうことなんだと思い、これからつらつらと書いていこうと思ったんです。

 

言葉が自分をつくる

「言葉は人をつくる」という言葉があります。羽生善治さんの言葉です。自分の言っていることを1番聞く人間は自分です。だからこそありたい自分でしゃべることが大事なんです。

しかし、日常生活のなかでやっていくのは少し難しいかもしれません。とっさに返してしまうときもありますからね。だからこそブログやツイッターなどの場でゆっくり考え、ありたい自分で言葉を出していくことで現実でもありたい自分でいれるようになるのだと思います。

しかし、自分がどうありたいかなんてわからないという人もいるでしょう。ぼくはそういう人こそ発信していくといいと思います。自分がどうありたいかも考えや価値観を発信していくことで自分を客観視することができ、次第に形ができていくんです。

 

ありたい自分で書く

なぜぼくがブログやSNSをつかって自分を発信しているのかというと、ありたい自分でいられる空間を創っていくためです。ありたい自分で書く。ありたい自分で発信する。これは自分が自分のことを知ることができ、さらに人に自分がどうありたいかを知ってもらえることもできます。

自分のやりたいこと、ありたい姿を書いていくのです。自分のありたい自分として。それが自分にとって居心地の良い空間をつくる一つの方法なのではないかと思うんです。

ぼくはこのブログで自分の考えだけじゃなく、共感した考えもどんどん写経していこうと思います。文章を読むだけではやっぱり足りないんです。それはここ一年間で100冊以上の本を読んだだけでおわったぼくだからこそ言えます。やっぱりインプットした情報はアウトプットしたくなるものです。自分のものにしたくなるものです。その情報を通して自分を知りたいんです。

どんな自分でもいられる空間を創っていくためにもブログを静かにやっていこうと思います。ゆっくりね。

ほな、さいなら