「行動しろ」って言葉に押されて「行動」のハードルあげすぎじゃない?

 

今日は「行動をする」ということについて書かせてもらいます。

 

最近の「行動を起こせ」という言葉は”行動”のレベルというかハードルを上げている気がしています。まるで今の自分たちは行動をしていないと責められてるように感じる。そして焦る。

 

具体的に将来の目標を設定して、それにむけた小さな目標を決めて、着実にやっていく。そのために行動を起こさなければいけないと。目標を決めなければいけないと。

 

目標を決めなければいけないから、目標を決めようと、自分の「したいこと」を探そうと、「自分がずっとやってられること」を見つけようと。それが見つからなければ行動できないじゃないかと。けど、実際、”行動”してないんですか?

 

”行動”はみんなしてるよ

ぼくが思うのは”行動”はしてるだろうってことです。いま世の中が「行動をしろ」といってくることは目標のためのこと以外は行動と認めないというようなことに聞こえます。けど、生活してるだけで行動はしてるじゃないですか。朝起きて、ご飯を食べて、洗濯や掃除をして、外に出かけて、、、これらはすべて行動じゃないですか。こういった”行動”をなおざりにしてほしくはないです。大丈夫ですよ。行動はしてます。

 

もう一つある悩みとして、”勇気が出ないから行動ができない”という悩みがあります。ここでも似たような”行動”に関しての仕分けがされている。「勇気を出さなきゃいけないこと」意外は”行動”じゃないという仕分けです。「勇気を出さなきゃ」と悩んで行動ができないなら、それはできなくていいんです。それより”勇気なし”でできる行動を少しずつやっていけば良いじゃないですか。

 

そうやって生活している内に”勇気がいる”瞬間は自然と訪れて、そういうときは以外と勇気を振り絞れたりする。”勇気なし”でできることをやってるうちに前までは”勇気がいる”行動だったものもできてるようになってるかもしれない。そんなものです。

 

将来を考えて焦らなくていい

よく言われていることですが、大切なのは”今”を生きることです。”今”を生きると言うよりは”今だけ”を生きる。ぼくもできてないときはまだまだありますが、これに尽きます。

 

未来のことを考えるのはかまいませんが、例えば、「一年後の自分は大丈夫かな」とあなたが考えてたとき、一年後の自分は果たして”今”(つまり一年後の今日)を楽しんでいてくれるでしょうか?たぶん、その一年後の自分はさらに一年後のことを考えているんです。さて、いつ楽しむんでしょう。今日考えたことはなんのための時間だったんでしょう。やっぱり、今を楽しむしかないですよ。

 

目標を決めるとなるとつい将来のことを考える。けど、将来のことは10秒後のことすら予測できない。どうせできっこないんです。スタート地点は今の自分、今の感情、今の欲求です。それを続けたいなら続ければいい。そのための工夫もすればいい。楽しいじゃないですか。

 

今日の目標は今日だけを生きることです。なので考えるのは「自分が何になりたいか」とか「自分がどうありたいか」というよりもむしろ、「今日なにがしたいか」とか「今日がどんな一日だったらうれしいか」ということです。

 

そんなことを考えている内に今日だけじゃ達成できないなっていう「したいこと」が出てくると思うんです。例えば、旅に出るみたいな。そのときにはじめて目標と道のりが見えるんですよ。人生はそんなことの連続です。

 

未来のことを考えるのはかまいませんが、例えば、「一年後の自分は大丈夫かな」とあなたが考えてたとき、一年後の自分は果たして”今”つまり今から言う一年後の今日を楽しんでいてくれるでしょうか?たぶんその一年後の自分はさらに一年後のことを考えているんです。さて、いつ楽しむんでしょう。今日考えたことはなんのための時間だったんでしょう。やっぱり、今を楽しむしかないですよ。

 

「行動しなきゃ」なんて気張らなくていいですから、心が身体が向かうままに行動していきましょう。それができないなぁと思ったらやらなくてもいいですし、できるようになるように自分を育てていく行動をしたってかまわない。いつもどおり生活しててもかまわない。なので、自分の生活の中にたくさんある”行動”をなおざりにしないで。むしろ、その一日の行動を楽しめばいい。

 

 

 

さぁ、今日をどんな楽しい一日にしましょう?

 

 

 

ほな、さいなら

”与える精神”はすごいけど、まずは自分に与えるようにしよう

 

与える精神で生きなさい。

 

そんな言葉をよく聞きます。Give&Give&Giveでいけと。 そしてこの考え方を真に受けるとそんなに与えられていない自分にがっかりしたりする。与えても見返りを求めたりもする。けどここで求められているのは見返りのないGiveで。難しいなぁとなる。

 

”人のために生きる”というのはすばらしいと思います。実際できてる人もいるので、単純にすごいなぁと思うんです。けど、この言葉を意識しすぎると自分が消えていきかねないです。じゃあどうするのって思いますよね。

 

まずは自分に与える

ぼくは”与える精神”というのは順番があると思うんです。それが「まずは自分に与える」ということ。人は持っているものの中からしか与えられないと思っています。それは物的なモノだけじゃなく、精神的なモノもすべてです。信頼、愛、尊敬、優しさそういうものもまず自分が持ってないことには人に配れない。

 

なので、まずは自分の中に自信、自愛、自尊心などを育んでいくことが最初だと思うんです。”与える精神”になれるのはそういったモノを育み、自分が満足し、余裕が出てきたものだけを与えることができれば良いと思うんです。

 

 

 だからぼくの考え方では、「自分に厳しい人は人にも厳しい」ですし、「自分に優しい人は人にも優しい」です。自分にかける言葉と同じような言葉を日常にも使うものです。脳内の声は日常でも使ってる声なんです。マザー・テレサのことばにこういう言葉があります。

 

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

 

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

 

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

 

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

 

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

この言葉でも、思考が言葉になると言うことを言っています。そして、この言葉はそれ以上のことを教えてくれます。思考が運命までつながるということです。そして思考は自分の中で完結することだったりします。だからこそ自分にたっぷり与えるんです。けど、育むための最初の種すらないという人もいるかもしれない。

あるモノを育めば他のモノも手に入る

最初の種もない。そういう人は自分の中にあるものを見てほしいです。それをゆっくりじっくり育めばいい。それが育まれていくうちに自分の中になかったモノまで手に入る。ここがおもしろいところで、優しいなと思うところです。神様というものがいるなら神様はかなり優しいんでしょう。そういうシステムを創ったんですから。

 

これは例えば、自信はないけど、自分の中に尊敬できる部分があるとします。例えば、「人が好きだ」とか。そしてそこに注目し、その誇れる部分を大きくしていく。そうしている内に自分は素敵な人間だなとは思えるようになり、自信も育まれると思うんです。これは別に性格とか心の話じゃなくてもいい。今日を生きられるというレベルだっていいし、絵が描けるとか、時間を守れるとか、小さいことでかまわないです。

 

とにかくそこに集中する。そして、自分の素敵な部分に注目している内に思わぬモノが自分の中に芽を出しているのに気づける日がくると思います。

 

まとめ

とにかく言いたいのは、「まず自分に与えよう」ということです。他人に与えるモノなんて、自分の中で余ったモノでいい。きっとみんなそうです。もちろん人に与えることで自分にも与えられるものだってあります。けど、それができない時期だってあるじゃないですか。

 

そんな時期こそたっぷり自分に優しくしましょうよ。自己中なんて当たり前ですよ。自分の人生なんですから。それでも「人のために生きろ」なんて言ってくるんだとしたら、「その言葉が人のためになってないなぁ」とでも思っておけばいいです。

 

たぶん、人は自分からはじめて自分に近しい人へ円を描くようにじわじわと与えられるようになってくと思います。自分に与えていたものが溢れだすように他の人に与えられていくんです。そして、以外と自分が知らないうちに人に与えていたりもするんですよ。だから、まずは自分に優しく、自分に与えるところからはじめましょう。

 

 

ほな、さいなら

アートがもっと身近になればという話

前々から思っていたことなんですが、日本にはアートが足りないと思うんです。これだけでは、は?って感じかも知れませんが、ぼくは圧倒的に足りないと感じでます。

 

最初にこの考えが浮かんだのは、テレビなどで世界の都市が紹介される中で、「パリ、ロンドン、ニューヨーク、、、」と紹介されていきついに東京の写真が出されるときに「これが日本が世界に誇る街なの?」って思ったんです。見渡す限りビルと人の群れでその群れをカオスを売りにしているような感じがしました。

 

これのどこが美しいんだろう。と思ったんです。そして「ここを歩く人たちは歩くこと自体に楽しみを感じているのか?」とも。そうやって考えていく中でたどり着いたのが”アートが足りない”ってことです。

 

ここでぼくが言う”アート”は”遊び心”だったり、”ゆとり”だったり、もっと言えば”人間味”です。人生を楽しめるモノ。それがアートだと思っています。

 

アートのある町並み

ぼくがホイアンの街に行ったときです。「あぁ、これはとてもいい街だなぁ」と思いました。ホイアンの街は世界遺産都市です。街並みが世界遺産なんです。そこら中に色とりどりのランタンがぶらさがり、暖かい光を与えてくれる。夜になれば町は赤、水色、ピンク、黄緑といろんな色で彩られる。そして、町の中には絵のギャラリーもたくさんある。これがアートな街です。こういう町に住むと心が潤うんだろうと思いました。

ちなみにこんな感じです。

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さっき言ったように、日本にはアートな部分が足りてないです。べつに「もっと美術館に行け!」とは言いませんが、もう少し歩くということを楽しんでみても良いのではないかと思うんです。そして、歩くことを楽しめる町並みになってもいいんじゃないかと。

 

例えば、「仕事がいやだなぁ」とか「なんかうまくいかないなぁ」っていうときに下を見て落ち込んでる。そんなときに街が道路がアートで彩られていたら、関心が外に向くじゃないですか。人はそんなちょっとしたことで救われるものです。その一瞬かもしれないですけどね。

 

さらに言えば、日常自体を一段上に持って行ってくれると思います。整然としている町並みよりすこし遊び心がある華やかな町の方が一日を楽しくはじめられる。そう思いませんか?

 

アートがもたらすもの

アートは心にゆとりを与えてくれます。そして、日常に楽しさも与えてくれる。あなたの生活の中にアートな部分はありますか?こんなことをきくと「アートってなに?」っておもうかもしれませんが、そんな難しく考える必要はないですよ。

 

アートは何か心が動くものです。知らないうちに体が反応しているものです。例えば、3歳の子がお父さんやお母さんの似顔絵を描く。そして、お父さんやお母さんがその絵に感動したり喜びを感じたなら、それは立派なアートじゃないですか。

 

そういう心の動きをアートは教えてくれます。じぶんが何に興味があり、どれほどそれが大事なのか。そして、自分の心は感受性はまだここにあるという感覚もです。

 

たぶん、日本の風景にアートな部分が少なく感じるのは、日本人自体にアートへの関心が少ないからです。そして、心が動かされるような景色は日々の中にたくさんあります。夕焼けとか日光を浴びる木とか、いくらでも。

 

 

今日は少しだけいつもより周りを見渡してみるのも楽しいんじゃないですか?

 

 

ほな、さいなら

大人こそ無垢さを大事にしようよ

 最近、学童でバイトしはじめたんです。なので、子供とふれあう機会が増えたわけです。といってもまだ3回ほどなんですけどね。

 

でも、そのたった3回でたくさん学びたいことがあったんです。そりゃもちろん、バイトの仕事内容もですけど、それ以上に子供たちから。もうどっちが先生かわからないですよ。

 

今日はその子供から学びたいところをつらつらと書いていきます。

 

仲良くなるということ

子供たちは簡単に仲良くなります。ぼくも子供の頃はみんなとすぐ仲良くなりました。引っ込み思案はかわらずに。不思議ですよね。まぁこんなこと言うと「え?今は友達作れないの?」って思うかもしれませんが、そんなことはないですよ。けど、明らかに下手にはなってるなと。けど、子供たちに会った瞬間に理由はわかったんです。

 

学童の子供たちとぼくは会った瞬間から友達でした。初めての場所だなとどきどきしていた自分をよそ目に子供たちはまっすぐな好意をぼくに届けてくれたんです。だって一言目が抱きつきながらの「〇〇です!よろしくおねがいします。あそぼ!」だったんですから。

 

好意に遠慮が無い。ここまで丸裸の好意を出せるっていうのは見習いたいものです。ぼく自身も人が好きで仲良くしたいって気持ちしかないです。けど怖じ気づいてしまう。けど、子供たちはちがう。「相手が自分のことをどう思おうが関係ない。自分が仲良くしたいからそれをぶつけるんんだ。」という感じで好意をぶつけてきます。だからすぐ仲良くなれる。

 

少し話がずれますが、この前、朝ドラの『半分、青い』でこんな言葉がありまして、

ああ、おれが恋をしろというのはそういうことだ。

リアルを拾うんだ。

想像は負ける。

好きなやつがいたらガンガン会いに行け。

仕事なんかいつでもできる。

ベタなんかいつでも塗れる。

空想の世界で生きているやつは弱いんだ。

心が動かされることから逃げるな。

そこには真実がある。

楡野いいか、半端に生きるな。

創造物は人が試される。

その人がどれだけ痛みと向き合ったか、憎しみと向き合ったか、

喜びを喜びとして受けとめたか。

・・・逃げるな。

 

単純にドキンとしたんですよね。自分が果たしてリアルを拾っているのかと。そして間違いなく子供たちはリアルを拾っているなと。子供たちはすごいです。自分もその無垢さを大事にしていきたいと思うんです。そうじゃないと、茨木のり子さんに「自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」と一喝されてしまう。

 

リアルを拾うことこそが仲良くなることなんだろうと。無垢さこそが仲良くなる秘訣なんだろうと。だから魅力的な人には子供みたいな無邪気さがあるんだろうと思うんです。その無垢さ・無邪気さを大事にしていこうと思います。

 

感情にフィルターがない

こどもたちがすぐ仲良くなる理由のひとつに感情を思うままに出すというところがあると思います。これがリアルです。そして、出せる理由に感情に善悪をつけてないというのがあります。善悪を判断するフィルターが感情にはかからないんです。

 

ぼくは知らず知らずのうちに感情にフィルターをかけていたりします。けど、実際そんなモノはないです。そんなものにかけて感情を抑え込んでも感情は自然に発生するからとめられませんしね。

 

こどもたちは感情にフィルターがないからこそ、自分の”嫌”も”したい”も”好意”も”怒り”も”悲しみ”も出せるんです。そしてだからこそ、自分の意見を伝え、心情を伝え、全身で相手に向き合うことができる。そうして、一瞬で仲良くなる。名前や相手の出身地なんてどうでも良いんです。あとからで。まぁ、名前こそ「覚えて!」と言われますけどね。けど極論を言えばそんなことは二の次でいい。

 

ここまでの素直さをだしていたい。正直、先生という立場としていることが困るくらいに学ぶ部分が多い。ぼくができるのは補助なんでしょう。「したいこと」をするためにはどうすればいいか。それを考えられるように促す。それをしていこうと思います。

 

結論を言いますと、素直でいようって言う話です。自分に素直に。これがぼくにBeingですから。あなたも無垢さを大事にしてください。ピュアな部分をさらけ出せるようにしていきましょうよ。そうすれば人は惹かれてきますから。

 

ほな、さいなら

自分の弱みを受け入れるのに悩みに悩んだけど、書いてたら愛らしく思えた話

最近めちゃめちゃ悩んでいることがあったんですよ。悩んでいるというか向き合ってるというか。それが自己受容なんです。自分のすべてを受け入れることなんですけどね。自分は弱みを受け入れてないときがけっこうあるなと。自分を批判することがまだあるなと。悩みに悩んでたわけです。自分の弱みを受け入れなきゃと。

 

それで、悩みに悩んだ結果思ったんです。

「いや、してようがしてまいが関係ないな。」

と。

 

どういうことかというと、ぼくは自己受容しきってから動こうと思っていたわけです。なんなら「今はそれをやるチャンスだと。受け入れきってしまえ!」とすら思っていたんですよ。けど、そんなもんどっちだっていいんですよね。というかこのスタンスだと一生受け入れきらないなと。

 

それでちょっとずつ前進していこうと思ったわけです。それでどうせなら自分の弱いと思っているところをここに書いちゃおうかと思ったので書きますね。

 

自分の弱いところは魅力だ

自分の弱点って愛らしい部分だと思うんですよね。けどぼくはいまいち理解しきって内部分がある。というのも、ぼくの弱みの一つに弱みを外に出せないっていうのがあるんですよ。

 

けど内心ではめちゃめちゃ出したがってるんですよ。そこでかるく出してみたんです。そしたらなんてことはないふつうに扱ってもらえたんです。なんならいつもより会話が弾んだんじゃないかというくらいに。

 

だからこれからは少しずつでいいから出していこうと思うんです。お金の管理が甘いところとかすぐに落ち込んで暗くなるところとか、すぐすねるところとか。人が大好きで仲良くなりたいのにいざ会話になると「会話しなきゃ!」って焦って会話を続けられないとか。それ以外にもたくさんあるんです。それを出していこうと思います。

 

そしてあなたも出してみると良いかもしれません。面と向かって誰かにじゃなくてもいいから。今、これを書いてる瞬間にとても面白いことが起きたんです。自分の弱点がいとおしく思えたんですよ。すごい長所じゃないかとすら思えてきました。

 

そして同時に思えるんです。こんなぼくと仲良くしてくれる、つながっていてくれる人はどれだけ素晴らしいのかと。ありがたいと思えるんですよ。そして、ありたい自分でいられる場所がこの先にあると思うと素敵だと思えますね。

 

理想を見がちで、感情的なぼくですが、これからもよろしくおねがいしますね。いや、こんなにかわいらしい自分なのだから大丈夫でしょうね。

 

ほな、さいなら

人生は足し算で豊かになるんじゃない、引き算で豊かになるんだ。

最近、こんなツイートをしました。

最近のぼくの考えの中に、「人生は引き算で豊かになる」ってのがあります。

人は生まれながらにしてセンスや才能のような必要なものは全部持ってて、生きてく中で見えにくくなってる。

だから徐々に減らしていって、本当に欲しいもの、なりたいものを明確にしていくんじゃないかと。

— 中村太一 (@nt_rr) May 13, 2018

 

これはぼくの中の最近の気づきですし、ブームでもあります。

ぼくの好きなブロガーの鳥井さんもブログで言っています。

→付け加えることは何一つない、大切なのは手放すことである。 | 隠居系男子

というのも今のこの世はものがあふれ、情報があふれ、自分を見失いやすい状況です。自分の方向性を失ったり、やることが多すぎて忙しすぎたりします。でも成果は出なかったり、幸せじゃなかったりする。

 

あなたの生活はどうですか?

「あなたにとって大切なものは何?」と聞かれたらすぐに答えられますか?周りに流され、振り回されてないでしょうか? 

 

豊かさは足し算じゃなくて引き算

多くの人が幸せや豊かさを自分に付け足していくことで得ようとしています。けど実際、”本当の豊かさ”というのは引き算によって得ることができるんですよ。ツイートの通り、じぶんが生きていく上で必要な要素は生まれたときにすでに持っているんです。

 

それでも今の世の中はノイズ(選択肢の多さ、他人の意見、何でも手に入れた方がいいという世の中の風潮)がとても多いです。そのノイズに惑わされる中で自分の本質の部分が薄れていってしまっている。自分の中に”優先順位”をつくって、自分で考え、選択していくことで、自分の本質を思い出しより豊かな人生を歩みましょう。本当の豊かさは今あるものを存分に楽しみ味わうことだと思うんです。

 

思考停止のまま、何にでも「はい」と答え、「NO」といえない。なにに「NO」をいえばいいかもわからない。それを判断するための優先順位を自分の中にちょっとずつ築いていくんです。

そう、地道に、ちょっとずつでいいですから。

 

より少なく、しかしより良く

そこで紹介したいのが”エッセンシャル思考”です。キーワードは「より少なく、しかしより良く」です。ぼくは最終的にはエッセンシャル思考を生きたいと思っています。

 

 

エッセンシャル思考を生きるというのは、
  1. 見極める技術
  2. 捨てる技術
  3. 仕組み化

という三つを身につけるということでもあります。

まずは、「見極める技術」です。これは優先順位をつくっていくことですね。この優先順位をつくるって言うのは主に自分の心の声を聞くって言うことです。なのでそのために「孤独」になる時間・環境をつくり、自分の「したいこと」をする。「したいこと」は往々にして「遊ぶこと」です。本の中でも筆者が言っています。

遊びは本質を探究するのに役立つだけでなく

それ自体がどこまでも本質的である

 

そして取り入れてほしいルールがあります。それは、「90点ルール」というものです。そのモノ・選択肢などが自分にとって90点以上か?もし90点以下なら捨てます。ぼくは「大好きか?」「めちゃくちゃワクワクするか?」って感じで考えてます。もっとわかりやすく本では聞かれてます。

絶対にイエスと言い切れないならすなわちノーである。

聡明ですねぇ。この言葉自体がエッセンシャル思考って感じです。

 

次に、「捨てる技術」です。捨てるには「拒否すること」と「線引き」が必要になってきますよね。そして、なんのために捨てるのかを明確にするための「本質的な目標」も。(ちょっと本の言葉使いすぎですかねw)

 

本質目標をたてるためにはこう問うんです。

「たったひとつのことしかできないとしてら、何をするか?」

そしてその内容を具体的にする。口で言うのは簡単なんですけどね。以外と難しいんですよ。ただ、ひたすら自分と向き合うっていうのは楽しいですよ。

 

そして、心の声に従い「拒否」をするんです。自分が感じた違和感に従い「ノー」と言う。これは勇気が必要ですよねぇ。ぼくも臆病だからなかなかできません。それでもやりましょ。ぼくもやるんで。臆病でかまわないから前に進むんです。

 

最後に「仕組み化」です。仕組み化をする上で必要なのは大きく見ること。生活全体を見るんです。「バッファ(緩衝材)」をみて、問題点を見つけ、「習慣化」することで日乗の行動全体に”エッセンシャル思考”取り入れていく。

 

これを繰り返して、徐々に”エッセンシャル思考”を中心に生きていきましょうよ。

 

最後に

ぼくが思うに、

非エッセンシャル思考を生きる→エッセンシャル思考を取り入れる→エッセンシャル思考を生きる

という順で徐々に浸透していくのかと思います。自分が本当に集中できるモノを見つけていく。最高じゃないですか。そのためにもあなたの身近なところからでいいからすこしずつ”エッセンシャル思考”を取り入れてみてください。

 

この記事で紹介したのは本に書いてある物の本の一部に過ぎません。ぜひ買って読んでみてほしいです。”エッセンシャル思考”には人生をより楽しむための本質的な要素がたくさん書かれています。

 

エッセンシャル思考に興味が出た方は是非『エッセンシャル思考』を読んでみてください。

 

エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする

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マンガでよくわかる エッセンシャル思考

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ほな、さいなら

少しずつ、でも前進

 ちょっと前まで、「今日は何もできなかった」とか「自分は臆病で行動できないな」とかいうふうに自分にいらついたり、落ち込んだりするときがあったんです。そういう日もありますし、しばらくそういうことだってあります。

 

自分の生活の中で前進している心地がしないとき人はそんな自分をもどかしく、またはむなしく感じる。けどそんな風に思う必要は無いんですよ。

 

前を向いていることを確認する

大事なのは前を向いているかどうかを確認することなんです。自分が前を向いているかどうかさえわかっていれば、確実に前には進んでますし、進めます。そして焦る必要だってないです。こういった落ち込みやいらつきは、大きな目標を掲げそれに全然追いつけないと感じたときに焦って出てきます。

 

けど、実際そんな大きな目標はないんです。

人の人生にはいくつもの”夢のドア”がある

人は…例えば「宇宙へ行く」みたいな大きな夢を持ったと時

目の前に現れたバカでかいドアに畏縮して

向こう側へ行くことを諦めちまう

「開けられるわけがない」────ってな

だがビビることはないんだよ

 

本当ははじめから─────

そんな”バカでかいドア”なんてものはない

 

小さなドアがいっぱいあるだけだ

”成長のドア” ”発見のドア” ”勝利のドア” ”賞賛のドア”

他にもいろいろ見つかるだろう

そしてその小さなドアを開けるたび

君らの夢がひとつずつ叶っていくのがわかるはずだ

 

君らにはそのためにやるべきことがある

手探りでも何でもいい

意地でも次のドアに手を伸ばし続けることだ

 

そんなことしてる間に────

気づいたら宇宙遊泳とかしてるかもよ?

 

これはぼくの好きな漫画「宇宙兄弟」でのブライアン・ジェイの言葉です。本当にこの通りだと思います。バカでかいドアが一つだけどっしり構えているわけじゃなく、小さないくつものドアの重なりにすぎない。そしてそのドアは人によって数も形も変わってくる。けど、前を向いて居さえすれば、そのドアを徐々に開けていける。

 

自分の目標をすでに達成している人を見たり、周りの様子を見たりすると自分が遅いじゃないかと焦ったりもします。けどそんな焦る必要は無いです。自分のペースでゆっくりでも早くてもいいから進めばいいんです。自分の目指すゴールや姿がまったく一緒なんて人は居ないです。だからまわりのひとは競争相手でも何でも無い。だったら、比べて焦る必要も無いですよ。

 

つい先を見すぎて、目に見える変化を求めることもあります。でも多くの人が、”周りはわからないけど自分の中にはある些細な変化”からはじめているんです。「臆病でいいから進んでいく」それがぼくのモットーです。

 

結局、前を向き続けることが大事なんです。それだけを確認して一歩ずつ半歩ずつでも進んでいきましょう。それこそ夢は知らないうちに叶ってたりするものなんです。身近に感じすぎるくらいに、かなえてる途中すら気づかないくらいに。けどかなえてる最中はやっぱり楽しいですよ。だから、少しずつでも前進しましょう。

 

ほな、さいなら