友達の友達の友達と話してみることが自分を広げることにつながる。
この前こんな記事を読んで、「あぁ、これが縁を大切にする生き方につながるかもなって思ったんです。
→「群れずに群れたい」を実現するためにはどうすればいいのか? | 隠居系男子
それぞれが自分で考えることを放棄しない限り、ぼくは群れずにいられると思っています。
どれだけ他者と群れようとも、他者に自己の意思決定権を手渡さない限りは、群れずにいられる。
(中略)
「群れずに群れたい」を実現し、本当の仲間と巡り会えるようになる。
この記事には、「自己の意思決定権を手渡さない限り、群れずにいられる」と書かれています。群れずにいることは一見縁を大切にしない生き方のように見えますが、ぼくは逆だと思っています。ここで言う「群れずにいる」というのは、意見で群れないと言うことだと思っています。自分軸をしっかり持つ。
けど、群れてはいたい。人とはつながっていたい。ここが縁を大切にするってことなんだと思っているんです。縁を大切にする上では他にも大事なポイントがあるんだと思います。でも、最初は、「自己の意思決定権を手渡さない」ってことからだと思うんです。
さて、なぜこれが縁を大事にする生き方につながると思ったかというと、この前大学の心理学の授業で『Why 30 is not the new 20』という動画を見たんです。
この動画ではこんなことが言われています。
20代の人が同じ考えの人とだけつるんでいると
友人の知っていることや知っている人
友人の考え方や話し方 友人が勤務する場所などが
限られた範囲になってしまいます。
新しく自分の資本になるものや新しい交際相手は必ずと言っていい程
内輪のサークルの外にいます。
新たな物事は友人の友人の友人のような
いわゆるゆるいつながりからやってきます。
ここで「ウィークタイ(=ゆるいつながり)」といわれているものがぼくは人が縁と呼ぶものだと思っています。そして、このウィークタイを意識して生活するというのが縁を大切にする生き方だと思うんです。
コンフォートゾーンの外側を重視する。
コンフォートゾーンの外側へ行くということもよく変化を起こすために大事だと言われています。コンフォートゾーンというのは自分にとって心地の良い空間・場所のことです。まさに動画の中で言われてた「限られた範囲」の中の話です。
ぼくは無理にコンフォートゾーンの外側に行けとは言いません。もちろんそれは大事ですし、ぼく自身はそこでの出会いなどを楽しみたいと思うところもあるので、重視したいと思っています。しかし、無理をするのは良くない。ぼくがまず言いたいのは、コンフォートゾーンの外に出るために、まずは自分を知るということをしてほしいってことなんです。
コンフォートゾーンの外に出るための自分軸
「群れずに群れたい」という話もここにつながってきます。「群れずに群れる」というのは自分軸を持つことで、距離感を図り、それでいて心地のいい距離感を保ちながら人とつながるということです。
自分=スタート地点です。ここがわかっていなければ、群れずに群れることはできません。そしてそれは同時に縁を大切にできないということでもあります。自分の価値観や考えがあってこそ、ほかの価値観や考えに触れる意味が増すんです。
もし自分軸を持たないままコンフォートゾーンの外側に出るならば、それは苦痛でしかないでしょう。自分を失いかねない。相手色に染まり切ってしまうかもしれません。そしてそれは、もはや縁とは言い難いものになってしまいます。
外向的な人のほうが得なの?
コンフォートゾーンの外側とか、縁を大事にするという話になるとどうしても外向的な人のほうが得なのか?というところに疑問が出てくると思います。結論から言うとぼくは内向的、外向的というところにどっちが得かという話はないと思います。
要はどちら側を重視するかです。内向的な人は自分軸をしっかり持ちやすい、なので距離のとりかたはうまいと思います。外向的な人は縁でできたつながりを大事にするのがうまい。しかし、どちらも大事なんです。
内向的な人は自分から行かなくてもいいと思います。そうじゃなくて、たまたま価値観のまったく違う人に会ったときにそれを受け入れたり興味を持つことができればいいと思うんです。
逆に外向的な人は、たくさんの人に会う中で自分の価値観を作り上げていく、人の意見や考え方を丸呑みするのではなく、自分はどう思うか、好きか嫌いかを大事にする。それがいいと思うんです。
最後に
どちらにせよまずは自分を知るところからです。自分がどういう考えなのか、自分は何が好きで何が嫌いなのか。それを知っていることが外側へ向かうことへの恐怖心をなくし、新たな出会いを歓迎する態度をつくると思います。
そして自分を知るためには自分の頭の中で考えているだけではいまいちはっきりしないと思います。アウトプットをするんです。そのためにもブログとかツイッターなどのSNSを活用することが大事なんです。
自己発信は自分のためにやるんです。自分を客観視するために。自分のできる範囲で小さく始める。それが次第にできることを広げ、余裕を広げてくれます。そしたら知らないうちに縁を大切に人と関われるようになれると思うです。最後に僕の好きな『宇宙兄弟』のブライアン・ジェイの言葉を。
人の人生にはいくつもの”夢のドア”がある
人は…例えば「宇宙へ行く」みたいな大きな夢を持ったと時
目の前に現れたバカでかいドアに畏縮して
向こう側へ行くことを諦めちまう
「開けられるわけがない」────ってな
だがビビることはないんだよ
本当ははじめから─────
そんな”バカでかいドア”なんてものはない
小さなドアがいっぱいあるだけだ
”成長のドア” ”発見のドア” ”勝利のドア” ”賞賛のドア”
他にもいろいろ見つかるだろう
そしてその小さなドアを開けるたび
君らの夢がひとつずつ叶っていくのがわかるはずだ
君らにはそのためにやるべきことがある
手探りでも何でもいい
意地でも次のドアに手を伸ばし続けることだ
そんなことしてる間に────
気づいたら宇宙遊泳とかしてるかもよ?
-ブライアン・ジェイー
ほな、さいなら
やりたいこととか変えたいもののために何かをしようとしてるあなた。まずは健康に投資してください。
あなたはなににお金を使ってますか?
お金の使い方というのはとても難しいです。稼ぐより難しい。どこにどう使うかで自分がどう生きるかが決まってきます。あなたは何にお金を使っているか把握していますか?ぼくはまだ完璧に把握できていないです。これもミニマリズムで少しずつ把握していこうと思います。
お金の使い方の話に戻りますが、何かを変えようとか何かをしようと思ったときそこにお金をかけるのはとてもいいと思います。では、漠然と何かを変えよう、何かをしようと思っているときはどうすれば良いでしょう。何からはじめればいいんでしょうか。ぼくならこう言います。健康からはじめようと。
まずは健康に投資する
まずは健康に対して投資する。具体的に挙げるなら、睡眠、食事、運動の分野です。睡眠ならいい睡眠をとる方法を調べる。食事もそう。どんな栄養がいいのかと言うことを調べたり、少し高くても健康のためならおしまない。これが健康に投資するということです。
なぜぼくがここまで健康を重視するかというと、「身体は資本」だからです。これだけ聞くと、自分の身体でしか動けないんだから当たり前だと思うでしょう。まずここで聞きたいのですが、あなたはその当たり前ができていますか?そして、たぶんあなたが思っている以上に身体を第一に考えなければすべてのスタートは切れないと思います。
身体というのは脳や心の話でもあるんです。ぼくは前こんなツイートをしました。
断食して思ったんだけど、体と心分けて考えるのやっぱ変だね。繋がってるなんてもんじゃない。心は体だし、体は心だ。
— 中村太一@巨人な抽象画家 (@nt_rr) June 15, 2018
心が荒れてたら体ん中も荒れてる。だから生活習慣見直せば変えられる。
このツイートの通り、「身体=心」なわけです。身体が不調だと心も不調です。脳ももちろん不調で考える力は弱くなりますし、自分の感情にもモヤがかかります。こんな状態なので「やりたいこと」や「変えたい部分」がわからないのも当然なんです。
そこで、健康に初期投資をするという話に戻ってくるわけです。健康に初期投資することで自分が整います。感情もわかりますし、変に不安を抱えることもなくなるわけです。睡眠・食事・運動の質が高ければ、たいていのことは気持ちよくできるんです。「なんで今ぼくは何もできないんだ。どうすれば良いんだ。」と思ってる時は生活のどこかに原因があります。
では、具体的にどう変えていけば良いのかですよね。ぼくがおすすめするのはやっぱり「断食」です。脳と腸が相関関係にあるのは知られています。腸は第二の脳というわけです。ここら辺の話も下の記事で書いています。是非読んでみてください。
健康に初期投資をするというのがぼくの伝えたいことです。ここから始まるんです。自分が荒れている状態のまま何かをはじめることはできません。できたとしてもすぐに壊れてしまいます。気になるのは、荒れていることに気づかない人が居ることです。少しでも思い当たる節があるのなら目を背けずに向き合ってほしいです。今日は抽象的な話になってしまいましたかね。
ほな、さいなら
忘れ物多くない?なら、ミニマリストの考え方を取り入れよう
あなたは「モノなくしやすいんだよなぁ」とか「忘れ物多いんだよな」ってことがありませんか?
ぼくは忘れ物が多いです。他の人より確実に多いです。正確に言うと多かったんです。今もすることはありますが、その頻度も確実に減っています。では、なぜ忘れ物が減ったのでしょうか。
忘れ物が多い原因は注意力が足りないから?
忘れ物が多い人が言われる言葉として、「注意力が足りないんだ」ということがあります。本当にそうなのでしょうか。本当の原因はそこでしょうか。もしそうだとすれば、すぐに直せるものではないと言うことになります。
ぼくは原因は別の所にあると思います。ぼくが思う原因は”物の持ちすぎ”です。出かけるときだけではなく、家の中自体に物が多い。これが忘れ物が多い原因だと思うんです。
例えば、出かけるときにリュックに必要な物をいれる、けど必要な(だと思ってる)物が多すぎて、忘れ物が出るということです。自分の家の中の状態を把握できていないから忘れ物が出てくる。外で忘れ物をするときもそうです。鞄の中を把握していないから忘れ物が出てくる。
しかし、ここで問題なのは把握できる能力がないことではありません。自分の把握できる範囲以上に物を持っていることです。大事なのは自分の管理できる範囲のなかで物を持つということです。
ミニマリストのすすめ
今、世の中にはミニマリストという生き方があります。これは、自分にとって必要な物だけで満足し、それ以外の物を排除していくという必要最低限で生きていくという生き方です。これだけ聞くと、なんてストイックなんだと思うかも知れませんが、むしろ逆で、ミニマリストの人たちはそれで幸せに生きているんです。かく言うぼくは、まだミニマリストとは言い切れませんが、ミニマリストに移行していっています。
なぜここでミニマリストの話をするかというと、ミニマリストな生き方が結果として忘れ物もなくすからです。自分の家のどこに何があるか把握できる状態。こうなれば物を忘れるなんてことは無くなります。忘れ物が多い人は注意力が足りないのではないんです。むしろ普通の人よりはあると思います。ただそれ以上に注意力を散漫させてしまうほどに物が多すぎる。そこが問題なんです。
ミニマリストとして生きていく方法はいろんなブログや本に書かれてます。ぼくがおすすめするのはしぶさんのブログや佐々木典士さんのブログです。この二人は本も出しています。とても面白いので是非読んで見てください。
→佐々木典士/Sasaki Fumioの書いた記事 | Minimal&ism
ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -
- 作者: 佐々木典士
- 出版社/メーカー: ワニブックス
- 発売日: 2015/07/25
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靴を磨く人は成功する
「夢をかなえる象」という本の中に成功する人の特徴の一つとして「靴を磨く」という項目があります。これだけ見ると靴を磨いておけば成功できると言っているように見えます。(ぼくは一時期そう思ってましたw)たしかにその側面はあると思います。やはりくつがきれいな人はしっかりした人に見えますからね。
しかし、実際やってみるとわかるのですが、なかなか続かない。それに定義がおかしいんです。「靴を磨けば成功する」。この方程式はかなりおかしいですよね。そこで考えた結果、一つの仮説できたのです。
それが、「靴を磨く人=ミニマリスト」という仮説です。全員ではないかも知れませんが、少しぼくの考えを聞いてほしいです。
まず、靴を磨いているということはそれだけの時間の余裕があると言うことです。つまり、やることが明確になっている。このやることが明確になっているというのはやらないことが明確になっているということでもあります。
そして、やらないことが明確になっているのは「物が少ないから」じゃないかと思うんです。物が多いとやはり、いろんな選択肢ができるわけです。そして最悪のパターンだと「あれもやらなきゃこれもやらなきゃ」という考えだけでいっぱいいっぱいになってしまい。最後にはやる気ごとそがれます。学習性無力感というものです。
しかし、物が少ないとやることも限られてきます。管理の目がすべてに届いているので、手入れも簡単です。やりたいことも明確になる。そしてなにより、ミニマリスト、つまり物が少ない人は自分にとって大事な物がわかっている人です。同時にそれに感謝を抱いている人でもあります。
今出てきたことを並べるとこうなります。
- 物が少ない=決断力が少なくていいように生活をデザインしている=ムダなことに決断力をつかわなくていい
- 物とやることの管理がしやすい=やりたいことやるべきことをすべて把握している
- 自分にとって大事な物がわかっている=自分の核がしっかりしている
- 物に感謝している=いろんな物に感謝できる
このように自分軸がしっかりしているため、周りから見ると「成功している」という風に見えるのです。そして当の本人はと言うと、成功にはあまり興味は無く、見栄もなく、幸せに暮らしているという感じです。
靴を磨く人が成功するというのはさっきあげたからくりに沿って自然とできあがった物だと思います。代表としてくつを取り上げたと言うことです。
最後に
話はそれてしまいましたが、通ずるところは同じです。物を減らすことで物を大事に扱うことができ、持っていることを忘れていたと言う物はなくなります。それは同時に忘れる物がなくなると言うことにもつながるわけです。
今回は「忘れ物が多い」という観点からミニマリストの考え方を紹介しましたが、ミニマリストはいいことだらけです。少し生活に取り入れてみるのもいいと思います。そして、ミニマリストになるというのは序章に過ぎないと言うことでもあります。ミニマリストになることで自分の大事な物が見え、人生をより豊かにするための方向性が見えてくるのです。
ほな、さいなら
アーティストとして自分が目指すところ
先日、画家の小松美和さんのライブペインティングを目の前で見たんです。もちろん絵は素晴らしく、というか前に立つと清々しくなると言った方がいいんですけど。実際にあなたにも見てもらいたいんですが、一貫して夢中になっていたという感じですね。
小松美羽さんの絵は前々から目指したい部分が多く、小松美羽さんになりたいとは思いませんが、描く姿勢とかアートへの概念は影響されてるところがあります。
そしてはじめて小松美羽さんが絵を描いている所を見ていろいろ思ったことがあります。それは、目指したい状態を見つけたってことです。それがどういう状態かを自分も忘れたくないのでここに書いていきます。
自分を空っぽにする。
ぼくがずっと感じていたのが、自分を絵のために空っぽにするってことです小松美羽さんは描く前に瞑想をするんですが、そのときから徐々に自分を空洞化させてるイメージがあるんです。どういうことかというと、創造されたものを表現するために自分を手段にしているんです。小松美羽さんの場合は神獣を描くことが多いからかも知れませんが、創造力とキャンバスをつなげるための管として自分を使っている感じがするんです。筆で描くのではなく、手で描くのでもなく、全身で描く。創造されたものをキャンバス上に降ろすために自分を使ってる感覚があるんです。
なので、全身でキャンバスにぶつかって描いています。見えるのはイメージとキャンバスのみで他の一切を排除し、集中しているんです。周りに色が飛び散ろうが、自分が絵の具まみれになろうが関係ない。どんなに周りがうるさかろうが関係ない。そんな感じを受けるんです。
自分は創造性というものとキャンバスをつなぐ管にすぎないかのようにそこで絵を描きます。それは、決してそこに人格がないというわけではなく、むしろ本人はそこに幸せを感じているように無我夢中で描いているんです。たぶん、描いているときは幸せとは思ってないでしょう。そんなこと思う刹那もなく、フロー状態にいるんです。
自分の目指すところ
この創造性のために自分全体を使うというのがぼくのたどり着きたいところです。ぼくは”絵は生き方”だと思っています。創造するということはそういうことです。生き方がもろに反映されます。そこに一切の嘘はつけません。たとえどうにか繕おうとしても超えることはないんです。だからこそ、あそこまでいけるすごさを実感しているんです。
正直、自分の目指すところが観れたうれしさと自分がそこにいけていないことを感じた悔しさがありました。僕もそこの領域まで行きたい。決して小松美和になりたいとは思わないですが、その喜びを感じたいんです。そしてそこには僕の表現の仕方でいこうと思います。
人の奥の奥底に届く。何かわからないかもしれないけど届かせる。そんな絵を描きたいんです。バカで構わない。ダサくて構わない。恥ずかしがり屋で構わない。下手で構わない。気持ち悪くて構わない。ただ、伝える。それだけに集中させたいんです。
ぼくが目指すところは、胸を突き刺し、何か違和感や刺激を与えつつ、同時に優しさを感じるような絵です。まだまだですが、いけると思っています。下手でも伝えていこうと思います。宣言みたいな記事になってしまいましたね。ここまで読んでいただきありがとうございます。
ほな、さいなら
ノリで始めて真剣にやる。
この前「断食」したんですよ。どれだけ引っ張るんだって感じかもしれませんが、今日はそれを友達にしたときに気づいたことを少し話そうと思います。
最近は「断食」したときのことを友達によく話すんですけど、その中で「断食」をするきっかけの話もするんですよ。けど、きっかけは何って聞かれてもたいした理由なんか無くて、ただのノリみたいなところがあるんですよ。もちろんワクワクしたからしたんですけど、そのワクワクも結局はノリじゃないですか。友達が「断食やってみたくない?」って言ったから、二つ返事で「いいねぇ」って答えて始まったんです。
でも、「断食」自体は真剣にやったわけです。ちゃんと調べて、ひとつずつ丁寧にやっていきました。やる理由も後からついてきましたし、そんなことはどうでもよかった。最初にあったのは「とにかくやってみよう」という気持ちだけでした。
ノリで始めて真剣にやる
あくまでノリで始める。失敗とか成功とかは興味なく始める。けどやるからにはちゃんとしたいので真剣にやる。これがフットワークを軽くする上で良いのかなと思うんです。質の良い行動力をつくる上で大事なんじゃないかと思うんです。結果にこだわるのはもちろん大事ですが、それは過程に入った後の話で、何かを始める前は結果なんてどうでも良い。
「成功するぞ」とか「よりよくなるぞ」とガチガチに力を入れてやると長続きしないし、過程を楽しめない。結果のためにやるんじゃなくて過程のためにやる。その感覚で始めることが大事なのかなと。
過程にさえのってしまえば、あとは結果にむけて楽しみ始めるので、結果は後からついてくる。結果すら過程の一つとして楽しむことができるんです。結果を気にするのはし始めた後のことですし、フットワークが重い人はとくに軽い気持ちで始めれば良いと思うんです。「こんな結果が出ないといけない」ってことは期待せずに、「こんな結果が出れば良いなぁ。でも出なくてもそれはそれで一つの実験結果だな。」って感じで受け止めれば良いんです。
失敗しないようにとか目的はなにかとかを重視しがちな世の中ですが、実際そんな大それたものいらないんです。もちろん目的を持つこと自体は大事ですよ。でも、最初はいらない。そんなところまで想像を飛ばさなくても、周りの人が気づかない暗く小さく始めたっていいんですよ。
見栄があるとかプライドが高いとかが理由で動けないって悩んでる人もいると思いますが、それすらも気にしなくていいです。ただやってみたいからやるんです。そしたら周りもなにも文句言いませんよ。なんでやるのとか面白がったりはするかもしれませんが、「やってみたいからやってる」って言われたらしかたないじゃないですか。
やってみて、やり始めたらしっかりやるんです。どうせやるなら効果が出た方がいいじゃないですか。興味から始めて実験をする。けど実験は計画練ったりして順序を追ってやらないと出た効果や結果が正しいかどうかすらわからないですよね。だから真剣にやるんです。真剣に楽しむんです。ワクワクを大事にするために真剣にやるんです。
最後に
周りからすればムダなことがその人にとっては大事だったり、自分からしてもムダなことをやるって大事だと思っています。この記事でも言ったと思うんですけど。
こんな感じでムダを愛するって言うのが人間味をつくっていくんじゃないかなと。そしてムダだけどやるって言うのはやっぱりそこにワクワクがあって、自分にとって大事なものだと思うんです。だからこそ、それを確認したいなぁくらいの気分でノリで始めていいと思います。
今日はどんなノリが待ってますかね。ノリで始めて真剣にです。
ほな、さいなら
断食したことある?人生初の3日間塩と水だけの断食をしたので効果ややり方を教えます。
あなたは最近「なんとなく疲れが抜けないなぁ」とか「頭の中がすっきりしないなぁ」とか感じていないですか。もしそうならぜひ断食をしてみてください。
今週、人生初の3日間断食をしました。その断食の間、口にするのは水と塩だけです。「断食なんて宗教とか?」と思う人もいれませんがそんなことはありません。医学的にも断食には効果があります。俗に言うプチ断食というやつです。
そして、結論から言うと、めちゃくちゃおすすめです!!生産性は上がり、頭もすっきり、朝の目覚めも最高です。他にもいろんないいことがあります。しかし、やり方を間違うと断食は逆効果です。専門家に聞くなり、しっかり調べるなりしてのぞみましょう。では、断食について詳しく紹介します。
・断食の効果
・準備するもの
・断食のやり方
・準備期間
・本番
・回復期間
・断食する上で気をつけると良いこと
・まとめ
断食の効果
では、断食には実際どんな効果があるんでしょう?断食の主な目的は内臓を休めることです。先天性でない限り、病のほとんどは「食」から来ているといわれています。つまり、断食をするだけでさまざまな病気が治るということです。では、具体的にどんな症状がなおる可能性があるのか見てみましょう。
・花粉症やアトピー
腸内環境が整うことで免疫機能が改善する。
・肩こりや腰痛
胃腸に集中していた血液が体内へ流れ、コリが改善する。
・冷え性やむくみ
ミトコンドリアが活発化して腎臓が元気になり、代謝ホルモンが活発になる。
・生理不順やPMP
腸内細菌・自律神経が整い、ホルモンバランスが正常化する。
・不眠症
腸内環境が整うことで睡眠ホルモンの分泌が高まる。
・便秘や下痢
腸内環境が改善することで、腸内細菌の働きが活発化する。
などなど、こんなにも効果があります。さらに腸は「第2の脳」とも呼ばれ、考え方まで、体全体に影響を及ぼします。逆に言えば、腸さえ改善すればほとんどのことがよくなるということです。実際、断食を終えてからのぼくの頭はすっきりしてますし、何倍も考えられるようになりました。
準備するもの
1.水(一日2L目安)
2.塩(常に携帯)
断食のやり方
断食をいきなり始めることはできません。断食には流れがあります。それが「準備期間→本番→回復期間」という流れです。どの部分を怠っても断食はうまくいきません。それでは、順にぼくの経験談をいれながら説明していきます。
準備期間
準備期間は何日とっても構いません。基本的にここで体を慣れさせていきます。なので、初挑戦の人は長めに2,3日とってもいいかもしれません。
ここでは、断食に合わしていくので徐々に食べる量を減らしていきます。そして食べる食事も「まごはやさしいっす」に従って食べていきます。「まごはやさしいっす」とは胃腸にとっていい食べ物たちのことです。
- 「ま」…豆類
- 「ご」…ゴマ類
- 「わ」…わかめ海藻類
- 「や」…やさい
- 「さ」…刺身 (断食前は食べない)
- 「し」…しいたけキノコ類
- 「い」…イモ類
- 「つ」…漬物
この食材を意識しながら、食事をとっていきます。ただ、野菜をとるときに人参やカボチャは糖分が多いのでできるだけ避けてください。ほかにも糖分が高いものはできるだけ避けましょう。
準備期間(僕の場合)
朝
豆腐、ポテトサラダ、納豆、わかめの味噌汁を食べました。この時点で豆腐がめちゃくちゃおいしく感じたのは気のせいだったのでしょうか。まぁ、この時はまだ楽勝ムードでした。
昼
このあたりからきつくなってきました。食べ終わった瞬間から腹が減っているという謎の状態になるんです。
夜
もう晩御飯の時には、逆に食べることでそのあとの空腹感を増長させてるんじゃないかとさえ思いました。腹減りまくりです。
本番
断食期間中食べられるものは水と塩のみです。ですが、水は十分にとってください。目安として一日2~2.5Lです。なので2Lペットボトルを用意してそれを飲み切るの目安にするといいと思います。
塩もしっかり舐めてください。断食だからと言って水と塩の摂取もへらすというのは危ないのでやめてください
1日目
朝起きる瞬間から体の様子がおかしいことがわかりました。もう体が重すぎる。だから起きるまでに時間がかかりました。起きた後も足が重く、やる気がでない。ただ朝ご飯を食べることもないので朝やることがない。朝ご飯を食べるってだけでそれなりの時間がとられてるんだと食べるという行為がどれだけ時間をとってるかがわかりました。
学校に出かけるときなんて手が震えていました。これはいつも糖分をとりすぎていたことで起きる現象らしく好転反応と呼ばれるものの一種です。その震えも昼には収まりました。
この日はほんとに何もやる気がわかず、やることもなかったので温泉に行きました。温泉はおすすめです。時間と空腹感を忘れることができます。ただサウナ等は少しあぶないです。避けましょう。
2日目
朝起きて、一日目との違いが歴然としてありました。足の重さはあるものの、頭はすっきりしていて、なぞの生産性向上を得ました。ブログははかどる、BASEの手入れはするなどなどいろんなことに手を出すようになりました。
しかし、空腹感の質は変わらず、いまだに食べ物を見るとのどから手が出そうになっていました。そして何気にきつかったのが眠れないということです。胃腸は疲れていませんし、一日使って体を休めてるようなものなので寝る必要がないと体が判断しだすんです。さらに眠るための体力があるわけでもない。しかし、起きていてもやることはない。これはそれなりにきつかったです。
ただ、生活全体としては非常に楽で体も軽くなってきていました。それなりに外に出かけ、歩いたりもしたので運動はそれなりにしました。
3日目
3日目は空腹感の質が変わってきました。腹は減っているんですが、「ぼくは腹が減ってるんだな」というメタ認知のような状態になって、食べ物を見ても距離を置いて見れるようになっていました。(食べたいことには変わりないんですよ。)
もうこの時には自分の体の神秘を感じていました。「人は三日間何も食べなくても動くことができる。しかもそれなりに運動できる。」という事実にただただ感嘆していました。
しかし、特にやることがあるわけでもなくとにかく暇なので、アマゾンプライムで映画やドラマを見ていました。それで選んだのがこれです。
なぜこれにした?と言わんばかりの選択。これほどに腹は減っていたんですよ。もしかするとドMなのかもしれません。そしてこんなものをみていたので暇つぶしに食べたいものリストを作っていました。 いまなら自分が本当に食べたいものがわかる気もしたんです。そしたら10分程度で60個近く出てくる始末。楽しかったのでよしとしました。そして、料理作るところばかり見ていたので、料理を作ることに目覚めそうになってます。
ひまつぶしとしては「食べたいものリスト」を作ることはいいですが、時期的にそうとうな精神力いると思うのでおすすめはしません。そのかわり「やりたいことリスト」とか「行きたいところリスト」みたいなもの作るといいと思います。
回復期間
断食本番が終わると回復期間に入ります。言っておきますが、回復期間が最も重要です。この回復期間に体に入れる食材が腸内環境を整えていきます。逆に腸に悪いものを入れると腸が荒れ日々の生活が前より悪化することだってあります。今の腸はどっちにも転べる±0の状態なんです。
なので、甘いものや固形物、カフェイン等の体に良くないものは体に入れないようにしましょう。そうしないと胃腸がびっくりしてしまいます。なので、食べ物もよく噛んで食べてください。
そして、回復期間の長さですが、断食をやった日数以上をとってください。今回のぼくの場合だと3日以上です。この長さは胃腸の強さにもかかわってくるので胃腸が弱いという方は4日とってもいいと思います。
回復期間1日目
回復期間一発目は「梅流し」です。梅流しとは梅干しと皮付き大根を一緒に煮込んで出た煮汁のことです。これでダメ押し的に腸の中に流し込んできれいにしていきます。
これがとてつもなくおいしい。塩味があたたかく口の中を満たしてくれます。おいしくおいしくゆっくりいただきました。このおいしさがわかるのは断食をしたものだけです。
昼はみそ汁の汁だけを飲みました。この味噌汁もまたおいしい。粒子単位で味噌を感じることができるんです。
夜はおかゆでした。物は市販で販売されているものです。
コンビニ等でも売っているものです。このおかゆがまたまたおいしい。久しぶりのお米ということもあり、とてつもなくおいしかったです。甘みと塩味の交わりがよかったです。
回復期間2日目
この日から徐々に固形物を食べていきます。主に野菜です。
朝はわかめの味噌汁。昼にはサラダを食べました。ツナがのっていたのですが、それはどけて食べました。そこで思ったのですが、「サラダはサラダだけで完結している。」ドレッシングとかいらないです。塩すらいらないです。野菜独自の甘みがあふれてきます。夜はおかゆを食べました。
このころになってくるともう頭がすっきりして、体は軽く、日中もねむくなりませんでした。朝もすっきり目覚めることができ、最高の日々を送ることができるようになっていました。
回復期間3日目
そしてついに回復食最後に日です。朝はおかゆに味噌汁、納豆にしました。一日前からは想像つかないほどの豪華さです。
昼は学食のネバネバ丼というものを食べました。 そして夜は野菜炒めです。この野菜炒めほとんど調味料入れていないんですが、ほんとにおいしかったです。人間はこれだけで十分に味を感じられるんだという気づきでした。
こうして回復期間を終え、4日目以降は普通食に戻します。
断食するうえで気を付けるといいこと
断食をしようと思ったら、一人でやらないほうがいいです。これは単純にモチベーションの問題だったりしますが、それでもだれかとやってください。多分一人だとすぐ折れてしまいます。僕の意志力が弱いのかもしれませんが、ぼくは基本的に人の意志力は弱いと思っているのでぜひ誰かを誘ってください。
あと、断食中危険だと思ったらすぐにやめてください。死ぬよりましです。運動も忘れないでください。体がだるく動きたくないかもしれませんが散歩をするなどそれなりに運動を取り入れてください。
まとめ
断食はものすごくおすすめです。その後の人生が一気に変わるんじゃないかというくらいいいです。これからもすこしずつとりいれて腸を休めるようにしようと思います。
断食のおかげで僕はすがすがしい朝を迎えることができ、楽しい毎日を過ごせるようになりました。頭の中がすっきりしたおかげで見えにくくなっていた自分の怒りにも気づけましたし、考えもはかどるようになりました。とにかく楽しい毎日を過ごせるようになったんです。久しぶりの感覚です。
ちなみに見つかった怒りがこちら
ぜひあなたにも断食後の食事のおいしさを味わってほしいです。面白半分でもかまいません。ただどうせやるならしっかりやりたいじゃないですか。あなたもぜひチャレンジしてみてください。
ほな、さいなら
大学はくそだ。人が腐る。
「大学」はくそだ。
昨日の夜、興奮と怒りを感じて眠れなかったんですよ。思い出したかのように怒りが湧いてきて。今日はそのことについて書こうと思います。もうタダの批判になるかも知れませんが、怒ります!
なんで、こんなに怒ってるかというと、自分でも気づかないほどのスローペースで怒りを積み立てられていたからです。そしてその怒りによって、自分を見失いそうになっていたからです。「生きづらいなぁ」と思いながら、「じぶんが悪いからだ」と思っていた。いや思わされていたことに腹が立っているんです。
「意識高い系」という人を殺す言葉と目
ぼくは向上心が強いです。人一倍。前にも書いたとおり、ぼくは【自我】を持っているので上昇志向が強いんです。そしてそんなぼくにとって「意識高い系」という言葉がつらいわけです。言葉と言うより目です。一歩も二歩も引いている冷ややかな目が辛いんですよ。まるで「自分はそっち側にはいないよ。バイバイ。」と言わんばかりの目がいやなんです。
実際にぼくが意識高い系かどうかは別として、生きづらい。「大学」という場はこの空気感でみたされている。ぼくはやりたいことをやっているだけなのに「意識高い系」と言われる。なぜ意識低い方が高い方を見下ろす感じで言えるのか位置関係からよくわかりません。そもそも見方が違う。意識は高い低いじゃなくて、どの方向なのかと言う話になるはずです。そして「その方向のことやってるんだ。おもしろそうだね!」とつながるはずなんです。
けど実際は人が何かをやってみようとなったとき、そのやっていることを面白がろうとするのではなく、「意識高い系」と「そうでない自分」という安全バリアを張りたがる。いっしょにやらなくたっていいから、そのやってることをいっしょに面白がれば良いのに。興味を持てば良いのに。そんなことは決してしない。やるのはただ「線引き」です。
何事もきめるのは「どれくらいの熱量で取り組むか」から
そして、「意識高い系」空気が蔓延してるので、なにかグループワーク等があっても始めるのは互いに「どのくらいの熱量をこめるか」を探り合うところから。何も面白くないですよね。面白いことだって起こらないですし。結局この探り合いも、冷えに冷えて「面倒だし」とか「それだと難しくなっちゃう」となんとなくやり過ごすという選択肢をとる。すごくつまらない。
そしてなにより、その熱量をどうするかということを探り合う部分自体がめんどくさいんです。なんだって真剣に取り組めばめちゃくちゃ面白いんです。けど、真剣に取り組むということがどんなことか忘れてしまうんじゃないかというほど真剣に取り組む機会が無い。その上で「自分には何もない」なんて言うんです。そんなこといわないでほしういですよ。たくさんもってるんだから。
ぼくは熱量は全力で注ぎたいですし、真剣に楽しみたい人間です。できるかどうかは別として、そんな自分を思い浮かべるだけで楽しくなるんです。だからこそいまそうじゃない自分に気づいて腹が立ったんです。なによりこんな怒りを積もらされ、それに気づかず、自分をほぼ失っていたことに腹が立つです。「自分が悪い」と軽く自己否定に入ってたことが。
やりたいこと・なりたい物がわからないから「大学」はない
ここまで批判に批判を連ねてきたぼくですが、ぼくが大学にきた理由も実は周りに流されたからです。周りがみんな大学に入ったから大学に入った。そんな感じです。そして理由も同じ。「まだやりたいことがないから」、「まだ就きたい職業が決まってないから」でした。
けど、ここまで大学生をしてきて思うのは、「やりたいことや職業が決まってないからといって”大学”に来る必要があったのか。」と言うことです。もしそれらを見つけたいからという動機があるのだとしたら、「大学に行く」という必要は無いと思います。それは、「大学に行く」ことではそれはほぼ見つからないからです。というより、問題は見つかった後なんです。やりたいことが見つかった後、行動をすると疎外感を感じかねない。だから実現までこぎ着けにくくなるんです。
やりたいことを見つけるとか自分に合った職業を見つけるにはやはり実際にやってみるしかありません。そう考えたときにやはり「大学にいる必要性」はあるでしょうか。そのやってみたいことは”大学”でできることなのでしょうか。そうかんがえると多くの場合は「大学にいる必要性」は無いと思います。むしろ手当たり次第にやってみたいことを書いて実践できる場に行けばいいんです。
十分に選択肢はあるはずです。ワーカーホリックや海外、インターンなどなどできることはいろいろあると思います。会ってみたい人に会いに行ってみたっていいんです。べつに「大学」に居る必要はないんです。
なんでぼくがここまで「大学に行く」ということについていってるかというと「大学に行く」という選択肢がひとつの投資だからです。お金がかかっているからです。奨学金を借りている人は借金をどう投資にまわすかと言う話になるからです。親じゃなく、自分の問題になっているからです。ちなみにぼくも奨学金を借りています。投資先を決める上で「大学」が最高の投資先なのかを確認する必要があります。
空気感で生きない。
正直、こんな空気感に浸っていると死んでしまいます。「個性」が死んでしまうんです。ぼくはひとの「個性」が輝いてる状態を見るとうれしくなるんです。けど、「大学」にあるのは同調圧力です。しかも同調しない人を殺しきらない、生殺しにする同調圧力です。空気感で生きるというのはそういうことになります。そんな場所で生きていたら腐ってしまいます。
人は環境には勝てない生き物です。環境にものすごく影響されます。しかし、その環境を選ぶことはできるんです。環境の状態に影響を受けやすいからこそ、環境選びを慎重にやらなくてはならない。少しでも感じた違和感を大事にしなくてはならないんです。
そんなことをいうと、「自分の今いる場所を変えられなくてどうするんだ。」と思うかも知れません。正直ぼくなりにやってみようとはしましたし、できませんでした。というか変える必要が無いんです。自分を変えたいだけなんですから。それができるほどの大きな人間になってからできるようになればいいじゃないですか。そこで落ち込むのは見当違いです。いまのぼくにはできない。けど、できることがあると思うからそちらをやりたいと思うんです。
大学に行くこと自体を否定しているわけじゃない
ここでいっておきたいのですが、大学に行くことを全否定しているわけじゃないです。大学でしか学べないことはあるし、大学のもつ特性自体は素晴らしいと思います。勉強したいことがある人にとってはこの上なく良い場所でしょうし、熱くなれるところだと思います。「学生」という肩書きを使って誰かに会いに行きたい人には有効だと思いますし、何かしたいことがあってその上で「大学に行く」という選択は素晴らしいと思います。
ぼくがもう一度考えてほしいと言っているのは、”なんとなく大学に来た人”です。そして同時に「なんか違うな」と思ってる人です。簡単に言うと少し前のぼくです。あとは大学に行くかどうか迷ってる人です。
「就職に有利になるから」という話をする人もいると思いますが、「大学に行った」と言うこと自体はもはやなんのアドバンテージでもありません。レッドオーシャンなんです。供給過多。そして、「大学に行く」ということは「大学」にある程度の時間がとられるということです。例えば、「この日〇〇さんに会いに行きたい。」と思っても、「テストがあるからいけない」と言うことが起こりかねないということです。
それよりは、何か他の人がやっていないようなおもしろいことに挑戦してみて「〇〇をやったことがある人」のほうが輝いて見えますし、ぼくはそんな人と仕事がしてみたいなと思うわけです。そうやって自分だけがしたことあるようなことを増やすことに時間を使った方がアドバンテージになると思います。
もちろん大学にいながら動くことはできます。けど、動くことができるかどうかを問題にしてるんじゃありません。大学にいる必要があるのかどうかを聞いているんです。
最後に
これが奨学金を借りながら大学に行っているぼくの意見です。昨日の夜この怒りに気づいてそこからは「ありたい自分」までつながりました。興奮しましたし、怒りもしました。「生きづらいなぁ」と感じていたんです。自分がまちがっているように感じていたんです。自分だけがおかしなやつのように見られる。それはとても辛いことです。ちょっとしたことの積み重なりですが、それが徐々に自分を辛くさせていくんです。
ぼくはこれからちょっとずつ活動の中心を大学から離れさせていこうかと思っています。具体的にどうするとかは決まってないですが、ここに居てもつまらないことはわかってるので、どうにかしようと思っています。怒りを一通りここに書きかなりすっきりしました。そしてもっと自分が行きたいように生きようと思います。
ここまで人の愚痴を読んでいただきありがとうございました。うれしい限りです。
ほな、さいなら